懐かしイズム イン タイム

一の時――懐かしさの彼岸――

わたしは小学校から中学校の9年間、長期休みはすべて従兄弟の田舎に行くのが好きだった。延岡から富高まで汽車で行き、そこでバスに乗り換えて、若山牧水生家前という停留場で下車、そこから200メートルの直線を歩いた右側に従兄弟の家はあった。豆腐屋(玄関の硝子戸には、豆腐ではなく豆富と書いてあったような気がする)をやりながら電気屋(ナショナルの看板もあった)もやっていた伯父。10畳ほどの玄関、その先は左手に10畳ほどの土間台所、右手が台所続きの10畳ほどの居間で、そこで8人の家族と一緒に食事をした。その先には庭園付きの庭があり、左手には豆腐を作る家があり、右手には5人は入れる風呂があった。庭の先には大きな(3メートル四方、深さ2メートルくらいのコンクリート)水槽があり、山からひいた清水がいつもちょろちょろと音をたてていた。その中には鯉や鰻(泥を吐かせるためと聞いていたが・・・)鮠、鮎、山女などが飼われていた。その奥上方には豚小屋があり、その奥には山まで続く畑があった・・・・・これほどまで鮮明に思い出せるのに、ふと、懐かしさとは何だろうと思った。
 現在、周辺は大きく様変わりし、道路拡張でバスの本数も増え(あるいは、自家用車の普及でバスは小型化され、本数も減っているかもしれない)、老朽化した家が改築され鉄筋家屋になっているかもしれない。しかし、わたしはそれを確かめることはしない。生存している従兄弟に今の田舎の様子を決して聞こうとはしない。

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや 
室生犀星

今回書きたかったのは、5月3日に新宿FACEで30年ぶりに開催したコンサートのことだ。あれから2ヶ月が経とうとしているが、やった、という実感が未だにわかない。わたしの時間の流れには存在していない、まったくの異時間、よって無実感としての行為だったと言える。ただ、「新・シーザーと悪魔の家」としての「アジアン・クラック・バンド」の誕生にははっきりとした手応えがあった。もっと早くやりたかったという感慨があった。そして、またやりたいという実感もあった。もちろん「シーザーと悪魔の家」のオリジナル・メンバーのギタリスト・森岳史の参加(健在ぶり)も懐かしさを越えて現実として受け止めている。なのに、未だコンサートそのものの実感がわかない・・・・・。

互いに意識しあいながらもその胸の内を明けることなく、互いに好きな道を選び、遠く離ればなれとなった男女がいた。男は女の思い出を胸に幾多の女と恋をし、女は男の誕生日の数字を思い出として生き、結婚して二人の子供をもうける。そして40余年の歳月を経、とある美術館で二人は再会した。すでに還暦を過ぎた男と女。ともに口にした最初の言葉は「懐かしい・・・」だった。

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