バベルツァイヒヌング(BABELZEICHNUNG ) /パイプドリーム抄画 6.

バベルツァイヒヌング(BABELZEICHNUNG )6.

手を絶対人と言った詩人は今は遠き闇烏・・・ものに触れ、ものを感じ、ものを書き、ものを作る手を絶対人と言った詩人は今は遠き・・・われらが心歌・・・さ、手を見つめ、手・指を動かし、思いっきりの話しかけをしてあげ、手を頬にあて願い事の夢をみよう・・・・・おや?指を絶対人と言いたげな詩人が風の又三郎と一緒にわれらが青い蒼い草原を走りすぎる・・・だが、まだ足が絶対人と言った(言う、言おうとする)詩人はいない。足の裏が絶対人と言った(言う、言おうとする)詩人はいない。・・・手当て=まさに手力のカンフー(カンポー)極意の治療法(治癒力装置)であることは間違いないように思われるが・・・。

 

パイプドリーム抄画 6.

パイプドリーム

 

Copyright (C) 2013 J・A・Seazer

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バベルツァイヒヌング(BABELZEICHNUNG ) /パイプドリーム抄画

バベルツァイヒヌング(BABELZEICHNUNG )

――バベル素描、または素描文字、メモ、悪戯書き、または単なる造語、あるいは比喩的絵空言葉――

劇団(渋谷にあった演劇実験室 天井棧敷)の地下劇場でギター片手に琥珀色のロ
ックを飲みながら「俺はバベルの塔のラスプーチンになってやる」なんて云ってい
た《琥珀色のロック》との会話を想い出しながら・・・・・・美術の時間の自分の
精神のための課題「絵空言葉素描」文字?そこに空白があるから書(描)いてしま
った悪戯書きの私守唄の歌詞文字?四コマ漫画的2分間デッサン文字?・・・とにか
く、デザイン学校に行き始めた時から「素描」という言葉が好きだったわたしは、
これからの人生を素描(ドイツ語でツァイヒヌング)の精神で生きてみようと思
った。。。。。。
さてはて、バベルとは世界が一つの言葉であることがこの脅威なる行為(天まで届く
塔の建築)の原因と考えた神が人々に違う言葉を話させるようにし、世界各地に散ら
ばらせたという説や二度目の大洪水から逃れるために天まで届かんばかりの塔を作
ったという説など諸説様々・・・・空想的で実現不可能な計画を比喩的に「バベルの
塔」というらしいが・・・いい響きの言葉ですね。

パイプドリーム抄画

――わたしと指の距離における空洞画、あるいは麻薬的空想画の時間――

わたしは多くの悪戯書きを書いてきた。それは音楽のためであり、演劇のためであり、美
を意識するためであった。女体モチーフの少年の心が基本だ。また空洞画、麻薬的空想画
の時間であるがゆえに思いつくがままの「テーマなし《はぐれ絵》」ともいえる。

バベルツァイヒヌング(BABELZEICHNUNG ) 1.

アラーの神。ゼウス。エデンの園。ラーマーヤナ。エゼキエル書。ナスカやビスコの地上絵。ストーンヘンジ。ピラミッド。ギルガメッシュ叙事詩とノアの方舟。マヤ文明とアトランティス大陸・・・・・・・・神々たちのもとに創造された現実的神話伝説・・・・・われわれにはそんな血の呼吸(故旧)も流れているんだ。

パイプドリーム抄画 1.  蟹腕人

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Copyright (C) 2012 J・A・Seazer

バベルツァイヒヌング

バベルツァイヒヌングはバベル素描、バベルとは「空想的で実現不可能な計画(われらが演劇実験もそのようなところがあるし)を比喩的にいってる」

バベルツァイヒヌング=「空想的で実現不可能な計画の比喩的素描」として、シーザーの言葉やスケッチ、メイク、衣装アイデア等を今後、twitterやblogでメモ的に皆さんと共有していきます。

そして劇は行く――錬劇術師たちの驚異の奇跡遊び――

そして劇は行く――錬劇術師たちの驚異の奇跡遊び――

 

1983年7月31日の24時に演劇実験室・天井棧敷解散、翌8月1日の零時に演劇実験室・万有引力は結成された。「天井棧敷」という名は継承できずともせめて連続した時間上に新たな劇団を結成したい、そこに創立メンバーたちの思いがあった。

江東区森下に拠点を持つことを決め、設備工場を改造して劇団員全員での手作りの劇場を二ヶ月間に渡って造った。それだけでも骨の折れる作業だったのに、劇場を造りながら同時に旗揚げ公演の稽古をやったのは、今思えば驚異だ。演劇が引き起こす驚異・・・・・そして、同年10月池袋文芸座ル・ピリエにて旗揚げ公演「支那の皇帝」上演。観客動員数最多の記録を樹立した。旗揚げ公演は、期待を込めた絶賛評がフランスのリベラシオン紙を含む新聞や雑誌などに載ったことで、「天井棧敷」の衣鉢を継いだ演劇実験室・万有引力の初航海の銅鑼が、その時確かに鳴り響いた。

・・・そして30年・・・・今は当時の創立メンバーはいない。(わたしと高田恵篤と正式に退団表明していない数名か。)だが、なにより劇団を継続・存続させようとするメンバーたちがいる。われわれが若かったあの頃、演劇に熱中していたあの頃と(日常・劇場における表現法はかなり違えど)同じ情熱と、そしてそれと同じくらいの戸惑いを抱えながらも懸命に演劇の現場に身を置こうとするメンバーたちがいる。わたしは、多くの劇団員たちが入退団を繰り返したその度に、幾度となく立ち戻ったあの頃に再び立ち戻る。

・・・そして30年・・・・再び航海の銅鑼が鳴り響くなか、われわれは30年分の航海日誌と鈍く輝く羅針盤を携え、幾度目かの船出に出ようとしている。1986年にエジンバラ国際芸術祭で最優秀演劇賞を受賞した「SUNA=砂漠の動物園」を新たに解釈した「砂漠の動物園=その錬劇的想像力世界(仮題)」を皮切りに、呪術音楽劇「邪宗門」、「観客席」、「リア王」、「身毒丸」を3年がかりで上演する予定だ。

 

われわれは純と情熱を受け入れ

人間の奥深さの比喩的演劇を子供の頃の砂場として遊び

その後姿を見るとき・・・

もっとも見えづらい背中のどこかに

人間空洞説の証しである小さな入り口を発見するだろう

懐かしイズム イン タイム

一の時――懐かしさの彼岸――

わたしは小学校から中学校の9年間、長期休みはすべて従兄弟の田舎に行くのが好きだった。延岡から富高まで汽車で行き、そこでバスに乗り換えて、若山牧水生家前という停留場で下車、そこから200メートルの直線を歩いた右側に従兄弟の家はあった。豆腐屋(玄関の硝子戸には、豆腐ではなく豆富と書いてあったような気がする)をやりながら電気屋(ナショナルの看板もあった)もやっていた伯父。10畳ほどの玄関、その先は左手に10畳ほどの土間台所、右手が台所続きの10畳ほどの居間で、そこで8人の家族と一緒に食事をした。その先には庭園付きの庭があり、左手には豆腐を作る家があり、右手には5人は入れる風呂があった。庭の先には大きな(3メートル四方、深さ2メートルくらいのコンクリート)水槽があり、山からひいた清水がいつもちょろちょろと音をたてていた。その中には鯉や鰻(泥を吐かせるためと聞いていたが・・・)鮠、鮎、山女などが飼われていた。その奥上方には豚小屋があり、その奥には山まで続く畑があった・・・・・これほどまで鮮明に思い出せるのに、ふと、懐かしさとは何だろうと思った。
 現在、周辺は大きく様変わりし、道路拡張でバスの本数も増え(あるいは、自家用車の普及でバスは小型化され、本数も減っているかもしれない)、老朽化した家が改築され鉄筋家屋になっているかもしれない。しかし、わたしはそれを確かめることはしない。生存している従兄弟に今の田舎の様子を決して聞こうとはしない。

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの 
よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや 
室生犀星

今回書きたかったのは、5月3日に新宿FACEで30年ぶりに開催したコンサートのことだ。あれから2ヶ月が経とうとしているが、やった、という実感が未だにわかない。わたしの時間の流れには存在していない、まったくの異時間、よって無実感としての行為だったと言える。ただ、「新・シーザーと悪魔の家」としての「アジアン・クラック・バンド」の誕生にははっきりとした手応えがあった。もっと早くやりたかったという感慨があった。そして、またやりたいという実感もあった。もちろん「シーザーと悪魔の家」のオリジナル・メンバーのギタリスト・森岳史の参加(健在ぶり)も懐かしさを越えて現実として受け止めている。なのに、未だコンサートそのものの実感がわかない・・・・・。

互いに意識しあいながらもその胸の内を明けることなく、互いに好きな道を選び、遠く離ればなれとなった男女がいた。男は女の思い出を胸に幾多の女と恋をし、女は男の誕生日の数字を思い出として生き、結婚して二人の子供をもうける。そして40余年の歳月を経、とある美術館で二人は再会した。すでに還暦を過ぎた男と女。ともに口にした最初の言葉は「懐かしい・・・」だった。

朝日新聞、ステージウェブ インタビュー記事 

■朝日新聞デジタル■

http://www.asahi.com/showbiz/stage/theater/TKY201202090351.html

「奴婢訓」は、寺山が主宰していた演劇実験室◎天井桟敷によって1978年に初演された代表作の一つ。同劇団の流れをくむ万有引力が寺山の死後、89年から再演している。

 演出・音楽は、天井桟敷時代から音楽を担当していたJ・A・シーザー。「宮沢賢治の作品を暗示的な事柄、予言的なせりふに置き換え、夢という無限の世界観をもつ寓話(ぐうわ)。寺山は『混沌(こんとん)の中にエロス的な杭を打ち立てる演劇の神髄』と語っていた。観客がいろんな方向から見られて、満足もできると思う」と語る。

 東北の寒村にそびえる、主人が不在の館で、召使たちが交互に主人を演じる。「滑稽かもしれない〈ごっこ〉だが、中心が不在で他に頼るものがなく、個で闘うしかない状況は、今の日本にも重なる。劇場は変化をうながす場所で、凝り固まった筋肉をほぐす効能がある

 

■ステージウェブ■

寺山演劇の後継者J・A・シーザーと高田恵篤が語る万有引力『奴婢訓』

http://www.stageweb.com/2012/01/banyuinryoku.html#09

(インタビュー動画あり)

 

奇才、寺山修司が亡くなって30年近く。自らの職業を聞かれると「僕の職業は寺山修司です」と語ったように、寺山は48年の生涯で演劇、小説、エッセイ、詩、短歌、作詞、脚本、映画監督、競馬解説など、さまざまな活動をみせた。今もなおその作品群は世代を超えて高い支持を受けている。

 とりわけ演劇については、寺山が主宰した劇団天井棧敷が海外公演を行ったこともあり、世界的に高い評価を受け、今なおさまざまな劇団、演出家によって寺山演劇は繰り返し上演されている。そのなかで、天井棧敷で中心的な役割を果たしたJ・A・シーザーや高田恵篤らが寺山の死後立ち上げた演劇実験室◎万有引力は、天井棧敷時代の演出や表現様式を現代に受け継いでいる貴重な存在だ。
 今回、寺山と天井棧敷の名を世界的に高めた『奴婢訓』を再演するふたりに話を聞いた。

 

 

’78年 晴海国際貿易センター 『奴婢訓』 動画

 

●78年天井桟敷新聞 『海を渡った奴婢訓』J・A・シーザー寄稿より●

 

演劇実験室・天井桟敷一行28名は、ヨーロッパで3ヶ月間「奴婢訓」を公演してまわった。これは、その時のシーザーの旅日記のほんの一部です。

一月十七日=午後三時、パリ・ドゴール空港に着いた。

一月十八日=午前十時から全員で作業開始。コーラスボックス・無人島ボックスなど木箱十九個作りで夜九時までかかった。

二月一日=パリ在住のゴバース女史がパリからやって来て、寺山氏とビデオの構成について急遽話し合った。ビデオと劇とを分離させず一   つの作品としてまとめることで合意。

二月七日=ビデオシステムも改良されて、いよいよ正式の初日。プレス・批評家も来る。団員全員に緊張感がみなぎる。予想通りいい出来だった。

二月二十四日=BBCの撮影のため9時起床。撮影は全スタッフ協力して順調に終了。いよいよ明日が楽日。「ホーバークラフトによる移動密室劇『奴婢訓』の三年越しの実験が総括される。

三月六日=昨日はデンボス公演で今日はテイエル公演。テイエルの町は人口八百人で、町の劇場のキャパが八百というウソのような話。日本人を見るのがめずらしいらしく、店に入ろうとすると奥から飛び出してきて「ウエルカム」とくる。

三月十六日=ハーグ公演。イカした劇場だった。劇場の名前も「HOT」。いかにも小劇場の見本のようなフリースペースで設備もととのっている。寺山氏も「うちの劇場もここまでいきたいね」としきりにあちこち見てまわっていた。

三月二十九日=いよいよ英国公演の準備。スタッフ会議をひらいて、アムステルダムの移動密室、地方ツアーの靴にかわるテーマとして「主人の椅子」という設定をもうける。観客席を含むあらゆる椅子の検証。

四月十一日=「初日」。客のほとんどがプレス関係の演劇評論家と招待客である。終わるや否や、プレス関係者が走って出て新聞社に電話を掛け始める。あわただしく電話送稿しているらしい。私たちは初日祝いのパーティー!日本酒「大関」。あとは明日の朝刊に出る批評ですべてが決まるという「ロンドン式」にまかせる他はない。

四月十二日=二日酔いの頭を叩きながらホテルのロビーに行くと、ニコニコ顔のゴバース女史がいた。「どうやら大成功よ!全部の新聞がほめているもの」うれしかった。大成功である。

四月十六日=もう千秋楽までチケットは売り切れだそうだ。寺山氏はインタビューに追われている。新高さん、タリらの演技を名指しでほめている記事も出ている。リバーサイドのディレクター兼演出家、ピータージル氏の家でティーパーティー。

四月二十九日=今回の海外遠征が、私達にとって何であったかは、帰国してみないとわからない。意味はいつでも、隠れてやってくるものなのだ。(J・A・シーザー)